わたしたちの町「八多町(はたちょう)」

私ども八多病院があります、八多町についてご紹介します。

八多町は、徳島市の南部に位置し、面積は約12.3㎢で人口約900人、370世帯の方が住んでいます。
八多の名前は町内は蔭地遺跡から二つの銅鐸が出土している関係から、この銅鐸は泰韓人の使用したもので、古代の一大勢力「泰氏」からきたものであろうとする説が有力となっています。

近隣には多くの古墳群もあり、弥生時代に有力な豪族が住んでいたものと推察され、仏教伝来以来多くの寺社仏閣が建てられ、徳島市内の中でも八多町周辺には戦災にも会わず由緒ある寺院が残っています。平安時代の延喜式神明帳にも速雨(はやさめ)神社(犬飼)と宇母里(うもり)比古神社(森時)が記載されており、八多が古くから農業をもって栄えた土地柄であることが知られています。

明治10年には徳島県となり、明治22年八多村は近隣の本庄、渋野、宮井、飯谷と合併して多家良村となりました。第2次大戦後、昭和26年に徳島市と多家良村は合併し徳島市八多町となり現在に至っています。